「山口さんということ」O J UN

2019年「昇華のモルフォロジー展」に寄せて

自転車で通りを走っていると向こうから歩道を歩いて来る人がいる。

二人は次第にその距離を縮めてゆくが二人の間には電柱が一本立っている。

二人の距離はもうすれ違うほどに近づいているのに電柱が邪魔で相手の顔が見えそうで見えない。そして二人はついにお互いの顔を見ること叶わず軽い失望を胸にすれ違う。

山口さんがドイツ留学をしていた時の絵を見るとそんな自分の日常体験を思い出す。

ただこのささやかな失望の訳は、山口さん本人の言葉(テキスト「顔を見る」―作品集「隣の顔」2018)を借りれば、

”むき出しにされた顔にうつし出されているものは、もはや、あなたが見たいものにすり替わっている〜“「顔(モノ)」を見そびれるからなのだが、ならばそれと引き換えに僕は

「他者」と向き合う僥倖を恵たということになるのかもしれない。

なるほど、山口さんは人が何かを見ることについて、その何かと自分の距離や関係について考えて絵を描いているのだろう。

絵に描かれた人や家の上に丸や鳥のような形が重ね描きされていて見通しを悪くさせている。つくづく僕たちの眼の欲深さを思い知らされる絵だ。

このように山口さんの“見通しの悪い絵“は実はとても明瞭で見晴らしがいい。でも、この逆説はもう一重、山口さんの絵に懸っていてそれゆえに僕はもう長いこと腑に落ちないでいる。顔や山、花や家、動物などいろいろなものを描く山口さんだが、筆触も絵具ももみくちゃにして絵の表面は荒々しい。どうしてこんなふうに描くのだろうとずっと思っている。奈落をまさぐるような描き方だ。

そして山口さんの絵を表現主義的と見たことが一度もない自分も腑に落ちない。絵の描き方について今まで何度か山口さんに聞いたことがある。でもいつも困ったような顔をして笑って胡麻化そうとする。本人もわからないんだなと思う。だからもう聞かないことにした。

顔や丸や関係や色のもっと下層に山口さんのまさぐる心身がある。山口真和さんは依然として電柱の向こうにちらちら見え隠れしている。

O J UN( 画家、東京藝術大学美術学部絵画科教授)