top of page

イメージの成立する場所―― 佐藤舞梨萌と山口真和の絵画  西村智弘

2019年「昇華のモルフォロジー展」に寄せて

 

佐藤舞梨萌と山口真和は、まったくタイプの違う画家である。

佐藤の絵画は抽象的であるし、山口の絵画は具象的であって、その作品は対照的ですらある。

二人の画家は、絵画を制作するスタンスが明らかに異なっている。しかし今回の展覧会の目的は、佐藤と山口の絵画の異質性を強調することにあるのではなく、一見すると異質な二人の絵画に通底するものを明らかにすることにある。

 

 わたしは、本展のタイトルを「昇華のモルフォロジー」と名づけた。

「昇華」とは、ある状態がより高次な状態へと飛躍することをいうが、このことをわたしは絵画の問題に当てはめてみたい。一般に絵画にはなにかが描かれているが、そのなにかを示すことだけが目的ではなく、描いたものをきっかけにしてより高次な世界を開示するものであろう。

少なくとも佐藤と山口の絵画には、このような象徴化のプロセスを認めることができる。

 「モルフォロジー」とは形態学という意味だが、この言葉はゲーテに由来している。ゲーテは、小説家であると同時に自然科学者で、植物学や光学に関する多くの著作を残した。20年を費やして完成させた『色彩論』では、たびたび絵画の重要性が説かれているが、彼は芸術家の視点で自然を眺めている。ゲーテは、自然のなかに神的なものを見いだすが、それは人間自身の内部に神的なものを発見するためである。わたしが注目したいのは、ゲーテの自然科学の背後に精神的なものが隠されているという事実である。彼は、自然のなかに昇華のプロセスを見いだしていたのである。わたしが今回の展覧会で問うべきは、佐藤と山口がどのような昇華の過程を経て絵画を実現させているかということである。

 佐藤の絵画は、近年ますます抽象化の度合いを増している。しかし、その作品は純粋抽象ではなく、彼女が初期の頃から一貫して描いている花や花のある風景の延長にある。佐藤は、絵画を描くうえで色彩と筆致にこだわってきたが、彼女の絵画が抽象化したのは、色彩と筆致を自律させるようになったからでもある。つまり絵画の抽象性は、色彩自体、筆致自体を追求した結果にほかならない。

 花に内在する生命力を描くことは、佐藤が絵画を制作するうえでの基本的なテーマである。生命力はそれ自体を直接に見ることができないので、絵画は象徴的な表現を取らざるをえない。彼女が色彩や筆致をそれ自体で追求するようになったのは、花の生命力をひとつのイメージとして強く表現しようとしたからである。佐藤の絵画は、抽象化することよってより象徴的になったのであり、日常を超えた超越的な世界を開示している。

 以前の山口はよく顔を描いていた印象があるのだが、近年では鳥、犬、山、家、階段など、さまざまなモチーフを描いている。彼女の描くモチーフは、それ自体としては少しも珍しいものではなく、わたしたちが日常的に目にするものばかりである。それにも関わらず山口の絵画は、どこかしら居心地の悪い、わたしたちにとって異質なものとして立ち現れる。山口は、絵画によって世界に対する違和感を表明しているかのようなのだ。

 山口にはイメージのあり方に対する独特の感性があって、モチーフと同時にイメージの在処を探している。彼女の選択するモチーフは、おそらくプライベートな関心に基づいているが、そこには彼女自身の心性が投影されている。山口の絵画は、彼女と世界との関係を象徴的に示しており、この関係性を描くことのなかで模索するプロセスが彼女の表現になっている。

 「昇華のモルフォロジー」展は、通常の二人展のように作家ごとにスペースを割り当てるのではなく、佐藤と山口の絵画がランダムに並べられることになるだろう。このような展示によって、二人の絵画の異質性と同時に類似性が明らかになるはずである。佐藤と山口が絵画で目指している方向は異なるが、昇華のプロセスを経ている点で共通する。わたしは今回の展覧会で、それぞれの画家にとってイメージの成立する場所があらわになることを期待している。

文= 西村智弘(美術評論家)

bottom of page